お盆にご先祖さまをお迎えする
高校2年になった息子に「お盆って神社でもするの?」
と聞かれました。
そこで、下の言葉をキーワードにして、説明をしてみました。
1,「盂蘭盆会の目連尊者」
2.「ご先祖さまに見守られている」
3.「寺請制度」
○簡単に結論を
「1」「2」「3」の詳細は以下に記載しますので、ゆっくりとお読みになって下さい。
先に「結論」を記載します。
「1」のように大陸の仏教では供養が目的であり、先祖が家に訪れるとういう信仰はない。
「2」のように先祖が普段から近くにいて我々を見守っているというのは仏教伝来以前からある、日本固有の祖先崇拝の考え方であり、それは神道的な信仰である。
「3」のように江戸時代の寺請制度により、幕府管理下で全ての住民が寺院に登録されることになった。
「結論」
江戸時代に寺請制度では寺院にて戸籍管理や葬儀を義務づけられたが、日本人の神道的祖先崇拝の在り方はかわることはなかった。寺院も神道的な考え方に寄り添うことで布教を進めた(神仏習合)。結果として、大陸の仏教とは異なる考え方である「お盆にはご先祖さまが帰ってくる」という考え方でお盆の行事が行われている(お彼岸も日本固有の風習である)。
1.「盂蘭盆会の目連尊者」
まずは、お盆といえば、仏教行事とおもわれますので、仏教の盂蘭盆会のお話しからいたしましょう。
仏教では人が亡くなると、西方浄土へ旅立ちます。33年間かかって西方浄土に到着する長い旅路。ですから、お盆の度に、この世に帰って来ると言うことはないのです。
仏教行事である盂蘭盆会の由来とされる「目連伝説」について、ウィキペディアには下のように記されています。
目連伝説
盂蘭盆会の由来に目連の伝説がある。仏教における『盂蘭盆経』に説いているのは次のような話である。
安居の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。
哀れに思って、釈尊に実情を話して方法を問うと、「安居の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えた。その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行うと、比丘たちは大いに喜んだ。すると、目連の母親は餓鬼の境遇から脱した。
おせがき
本来的には安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていき、それに、儒教の孝の倫理の影響を受けて成立した、目連尊者の亡母の救いのための衆僧供養という伝説が付加されたと考えられている。
2.「ご先祖さまに見守られている」
次に、神社本庁HPにある「先祖のおまつりについて」を引用します。
家のおまつり
家のおまつりには、神棚や正月、お盆、お彼岸などのほかに忘れてはならない大切なものがあります。日常の祖先のまつりです。日本人は、古来、人は亡くなってもこの世にとどまって、いつでも子孫を見守ってくれている存在だと考えてきました。だからこそ、日本人は祖先をおまつりしてきたわけです。現代に生きる我々も共有する考え方でしょう。
年祭とは、特別な年の命日のおまつりで、亡くなって満1年、2年、3年、5年、10年、以降10年ごとに行うのが一般的です。普通は50年で「まつりあげ」となり、故人の御霊は清められて神様のもとに帰るといわれます。年祭の日には、親戚や故人と親しかった人を呼び、神職におまつりをしてもらいます。
お盆
一般に盆とは、盂蘭盆の略とされ、盂蘭盆には梵語で倒懸になっているのを救うという意味があり、あの世で非常な苦しみを受けている死者を供養し救う仏教行事とされています。
しかし、供え物を載せる容器を日本の古語で「ボン」と言ったことから盆になったという説もあり、盆行事は、日本に古くからあった祖霊祭の名残であろうとも考えられています。
関東地方では7月15日に行われることが多いようですが、関西などの西日本では月遅れの8月15日に行うところが多く、「おがら」と呼ばれる麻の茎や麦藁、松の割り木などを焼く迎え火・送り火の風習は、江戸時代に盛んになったと言われています。
また、盆踊りは、本来、祖先の霊を慰め送り出すためのもので、あの有名な阿波踊りも盆踊りの一つです。
正月や盆など祖先の霊は年中いく度も子孫のもとを訪れます。正月棚や盆棚(先祖棚)はその際に祖先を迎える場所で、神棚や御霊舎の原型とも考えられています。
お彼岸
「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉どおり、彼岸は季節の変わり目であると同時に、また、祖先をまつる大切な行事でもあります。
彼岸は、春分の日(3月21日頃)と秋分の日(9月23日頃)をはさんだ前後の3日間ずつ、計7日間のことで、それぞれ春彼岸、秋彼岸と言い、彼岸の最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸の明け」、春分・秋分の日を「彼岸の中日」と言います。
彼岸には、お墓参りをする習慣があり、祖先の霊を家に迎える盆とは違って、祖先に会いにゆく行事としての色彩が濃いようです。
彼岸は、日本にしかない行事で、豊作に欠かすことのできない太陽をまつり、祖霊の加護を祈る古くからの儀礼と結びついたものと言われています。
3.「寺請制度」
さて、神道と仏教のお盆の行事が習合して現在のお盆の行事になっていると思われますが、習合が必要であった理由は江戸時代の寺院が担った寺請制度が関わっているようです。
以下はウィキペディアより引用しました。
寺請制度
寺請制度(てらうけせいど)は、江戸幕府が宗教統制の一環として設けた制度。寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度である。必然的に民衆は寺請をしてもらう寺院の檀家となったため、檀家制度や寺檀制度とも呼ばれるが、厳密には檀家制度と寺請制度は異なる(詳しくは檀家制度を参照)。
その目的において、邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙った制度であったが、宗門人別改帳など住民調査の一端も担った。
内容
具体的には、仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請ける制度である。寺請制度の確立によって民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となる事を義務付けられた。寺院では現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院に一定の信徒と収入を保証される形となった。
一方、寺院の側からすれば、檀信徒に対して教導を実施する責務を負わされることとなり、仏教教団が幕府の統治体制の一翼を担うこととなった。僧侶を通じた民衆管理が法制化され、事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、また汚職の温床にもなった。この事が明治維新時の廃仏毀釈の一因となった。
また、民衆の側からすれば、世の中が平和になって人々が自分の死後の葬儀や供養のことを考えて菩提寺を求めるようになり、その状況の中で寺請制度が受け入れられたとする見方もある。例えば、現在の静岡県小山町にあたる地域で江戸時代に存在していた32か所の寺院の由来を調べたところ、うち中世から続く寺院は1つのみで、8か所は中世の戦乱で一度は荒廃したものを他宗派の僧侶が再興したもの、他は全て慶長年間以降に創建された寺院であったとされている。また、別の研究では元禄9年(1696年)当時存在した6000か所の浄土宗寺院のうち、16世紀以降の創建が9割を占めていたとされている。こうした寺院の創建・再建には菩提寺になる寺を求める地元の人々の積極的な協力があったと推定され、寺請制度はその状況に上手く合う形で制度として社会へ定着していったとみられている。