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令和6年 節分祭追儺式

 当社恒例の節分祭追儺式は、下記の日程にて執行いたします。   令和6年2月3日(土)  節分家内安全講祈願祭 祭典 午前10時  厄年年男厄除祭    祭典 午後2時  節分講社祭      祭典 午後2時30分  豆撒き(節分講・年男とも) 午後3時ごろ   本年は、節分が土...

2022年8月27日土曜日

八雲神社「真岡鐡道沿線ご朱印めぐり」紅葉デザイン頒布のおしらせ

 9月1日(木)より、八雲神社真岡鐡道沿線御朱印めぐりの御朱印を、秋の紅葉デザインにて頒布いたします。

これに伴いまして、現在頒布中のデザインは8月31日(水)までとなります。

初穂料は500円(直書き・書置き共)です。



当社では、季節や御縁日などに合わせた特別御朱印を頒布しております。

各御朱印のデザインや頒布時期は、ブログやTwitterなどにて随時ご案内をしておりますが、ご不明の場合は、ご来社の前に頒布中の御朱印の種類をお問合せくださいますようお願いいたします。



*社務所の開所時間は9:00~17:00です。

*御朱印の拝受をご希望の場合は、16:00ごろまでにお参りくださいますようご協力をお願いいたします。

*御朱印は、社務所の都合により、書置きのみの対応とさせていただく場合があります。

*メールでのお問合せには、お返事に時間を要する場合がありますので、お急ぎの際はお電話をご利用ください。

*メールをお送りいただいた後、4~5日経過しても返答がない場合は、何らかの理由で受信できていないか、迷惑メールに振り分けられてしまっている可能性があります。

 再度送信していただくか、お電話等別の手段にてご連絡ください。


何卒ご理解とご協力をお願いいたします。



2022年8月23日火曜日

七五三昇殿参拝祈祷のごあんない(令和4年)

七五三昇殿参拝は、一組ごとの完全予約制にて斎行いたします。

他の参拝者の方と一緒になりませんので、感染症の心配も少なく、ゆっくりと参拝・直会の時間をお過ごしいただけます

詳しくは、下記の通りです。


【ご祈祷について】一回のご祈祷につき一組の完全予約制です。

受付時間:午前9時より午後4時まで、30分間隔にてご予約下さい。

  *事前に、お電話などにてご予約・受付をお済ませください。

  *拝殿でのご祈祷、写真撮影の後、参宝殿にてご休憩いただけます。

御初穂料:8,000円を目安にお気持ちにてお納め下さい。

  *ご兄弟などでご一緒にご祈祷をご希望の場合は、お一人追加毎に5,000円をお納め下さい。

  *初穂料には、授与品(御札、千歳飴、破魔矢、御守、金メダル、神話カレンダー)、

   直会の御抹茶(10名まで)が含まれます。

ご注意:

 ◎地域の各神社の秋季例祭の時期でもありますので、神主が不在の場合もあります。

  必ず事前にお問合せ・ご予約の上お参り下さい

 ◎ご祈祷1回につき1組とさせて頂いておりますので、時間厳守にてお願いいたします。

  ご都合により予約時間にお越しになれない場合は、お早めにお電話にてご連絡ください。

 ◎駐車場に限りがあるため、お車でお越しの場合はなるべく乗り合いにてお願いします。

  4台以上の場合は臨時駐車場をご案内しますのでお問合せ下さい。



※尚、七五三詣以外のご祈祷(初宮詣、交通安全祈願、厄除など)につきましても、事前にご予約をお願いしております。何卒ご理解・ご協力を頂けますようお願いいたします。

 お問合せ・ご予約は、こちらまでお願いいたします。

  電話 0285-63-0479(9:00~17:00にお願いします)


※メールや、SNSへのメッセージを利用したお問合せには、迅速なお返事ができないがあります。スムーズなやり取りができますよう、なるべくお電話をご利用ください

2022年8月15日月曜日

終戦の詔勅

 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」ばかりが知られている「終戦の詔勅」。

一体どういった内容だったのでしょうか?

戦時中の艱難辛苦を指しているいると思われている方は勘違いをしています。

ぜひ一度、原文と現代語訳にふれてみて下さい。


終戦の玉音放送

宮内庁HPより

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html

 

終戦の詔書のお写真

国立公文書館アーカイブより 





 【終戦の詔書(原文)】

以下、HUFFPOSTより引用いたしました。

原文は玉音放送を聞きながら目を通してみて下さい。

下の方に現代語訳も添えてあります。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6102140fe4b0d1b96e621f96

 

【終戦の詔書(原文)】

朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以(もっ)テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク

 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其(そ)ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

 抑々(そもそも)帝国臣民ノ康寧(こうねい)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々(けんけん)措(お)カサル所曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ゆえん)モ亦(また)実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如(ごと)キハ固(もと)ヨリ朕カ志ニアラス然(しか)ルニ交戦已(すで)ニ四歳(しさい)ヲ閲(けみ)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘(かかわ)ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(これにくわうるに)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(しきり)ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而(しか)モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(かく)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保(ほ)シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是(こ)レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

 朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想(おもい)ヲ致セハ五内(ごだい)為ニ裂ク且(かつ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(こうむ)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(しんねん)スル所ナリ惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫(そ)レ情ノ激スル所濫(みだり)ニ事端(じたん)ヲ滋(しげ)クシ或ハ同胞排擠(はいせい)互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜(よろ)シク挙国一家子孫相伝ヘ確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克(よ)ク朕カ意ヲ体セヨ

 

【終戦の詔書(現代語訳)】

現代語訳は、麗澤大学の川上和久教授(政治心理学)の監修のもと掲載)

私は、世界の情勢とわが国の現状とを十分に考え合わせ、非常の手立てをもってこの事態を収拾しようと思い、私の忠義で善良な国民に告げる。

私は政府に対し、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に、四国共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。

そもそもわが国民が健やかに、安らかに生活できるよう心がけ、世界の国々とともに栄えその喜びを共有することは、歴代天皇が手本として残してきた教えで、私も常に念じてきたところでもある。したがって、さきに、アメリカとイギリスの二国に宣戦布告した理由もまた実に、わが国の自存とアジアの安定を心から願ったためであって、他国の主権を押し除けたり、領土を侵したりするようなことは、もちろん私の意志とは異なる。しかしながら、この戦争が始まってすでに4年がたった。陸海軍の将兵は勇戦奮闘し、多くの役人たちも職務に励み、一億国民も各職域に奉公してきた。それぞれが最善を尽くしてきたが、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我々に不利である。そればかりでなく、敵は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して、多くの罪なき人々を殺傷し、惨害がどこまで広がるかはかり知れない。なおも戦争を続けるなら、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも打ち壊すことになるであろう。そのような事態になれば、私はどうして我が子のような国民を保護し、歴代天皇のみたまにお詫びできようか。これこそ、私が政府に対し、ポツダム宣言に応じるようにさせた理由である。

 

私は、わが国とともに終始アジアの解放に協力した友好諸国に対し、遺憾の意を表明しないわけにはいかない。わが国民のうちで戦死し、職場で殉職し、不幸な運命で命を落とした人々やその遺族に思いをはせると、まことに悲しみに耐えない。また、戦争で傷を負い、戦禍に遭い、家業を失った人々の厚生を考えると深く心が痛む。思うに、これからわが国が受ける苦難は尋常ではないだろう。わが国民の心中も私はよくわかっている。しかし、時世の移り変わりはやむを得ないところで、耐えがたいことを耐えて、忍び難いことも忍んで、未来の平和を実現するために道を拓いていきたい。

私は今ここに、国体(天皇を中心とする秩序)を護持し得て、忠良な国民の真心を信じ、常に国民とともにある。もし激情にかられて、みだりに問題を起こしたり、同胞が互いに相手をけなし、おとしいれたりして時局を混乱させ、そのために人間の行うべき大道を誤って世界から信義を失うようなことがあれば、それは私が最も戒めたいことだ。全国民が家族のように仲良く分かち合い、長く子孫に受け継ぎ、わが国が不滅であることを固く信じ、国の再建と繁栄への任務は重く、その道のりは遠いことを心に刻み、持てる力の全てを未来の建設のために注ごう。道義心を大切にし、志を強固にして、わが国の美点を発揮して、世界の進歩に遅れないよう努力しなければならない。わが国民よ、私の意のあるところを十分汲み取って身につけてほしい。

 

2022年8月13日土曜日

お盆は神道行事!?

 お盆にご先祖さまをお迎えする

 高校2年になった息子に「お盆って神社でもするの?」

と聞かれました。

そこで、下の言葉をキーワードにして、説明をしてみました。

1,「盂蘭盆会の目連尊者」

2.「ご先祖さまに見守られている」

3.「寺請制度」

 

○簡単に結論を

1」「2」「3」の詳細は以下に記載しますので、ゆっくりとお読みになって下さい。

先に「結論」を記載します。

 

1」のように大陸の仏教では供養が目的であり、先祖が家に訪れるとういう信仰はない。

2」のように先祖が普段から近くにいて我々を見守っているというのは仏教伝来以前からある、日本固有の祖先崇拝の考え方であり、それは神道的な信仰である。

3」のように江戸時代の寺請制度により、幕府管理下で全ての住民が寺院に登録されることになった。

「結論」

江戸時代に寺請制度では寺院にて戸籍管理や葬儀を義務づけられたが、日本人の神道的祖先崇拝の在り方はかわることはなかった。寺院も神道的な考え方に寄り添うことで布教を進めた(神仏習合)。結果として、大陸の仏教とは異なる考え方である「お盆にはご先祖さまが帰ってくる」という考え方でお盆の行事が行われている(お彼岸も日本固有の風習である)。

 

1.「盂蘭盆会の目連尊者」

まずは、お盆といえば、仏教行事とおもわれますので、仏教の盂蘭盆会のお話しからいたしましょう。

仏教では人が亡くなると、西方浄土へ旅立ちます。33年間かかって西方浄土に到着する長い旅路。ですから、お盆の度に、この世に帰って来ると言うことはないのです。

仏教行事である盂蘭盆会の由来とされる「目連伝説」について、ウィキペディアには下のように記されています。

目連伝説

盂蘭盆会の由来に目連の伝説がある。仏教における『盂蘭盆経』に説いているのは次のような話である。

    安居の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。

    哀れに思って、釈尊に実情を話して方法を問うと、「安居の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えた。その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行うと、比丘たちは大いに喜んだ。すると、目連の母親は餓鬼の境遇から脱した。

 

 おせがき

本来的には安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていき、それに、儒教の孝の倫理の影響を受けて成立した、目連尊者の亡母の救いのための衆僧供養という伝説が付加されたと考えられている。

 

 

2.「ご先祖さまに見守られている」

次に、神社本庁HPにある「先祖のおまつりについて」を引用します。

家のおまつり

家のおまつりには、神棚や正月、お盆、お彼岸などのほかに忘れてはならない大切なものがあります。日常の祖先のまつりです。日本人は、古来、人は亡くなってもこの世にとどまって、いつでも子孫を見守ってくれている存在だと考えてきました。だからこそ、日本人は祖先をおまつりしてきたわけです。現代に生きる我々も共有する考え方でしょう。

年祭とは、特別な年の命日のおまつりで、亡くなって満1年、2年、3年、5年、10年、以降10年ごとに行うのが一般的です。普通は50年で「まつりあげ」となり、故人の御霊は清められて神様のもとに帰るといわれます。年祭の日には、親戚や故人と親しかった人を呼び、神職におまつりをしてもらいます。

お盆

一般に盆とは、盂蘭盆の略とされ、盂蘭盆には梵語で倒懸になっているのを救うという意味があり、あの世で非常な苦しみを受けている死者を供養し救う仏教行事とされています。

しかし、供え物を載せる容器を日本の古語で「ボン」と言ったことから盆になったという説もあり、盆行事は、日本に古くからあった祖霊祭の名残であろうとも考えられています。

関東地方では715日に行われることが多いようですが、関西などの西日本では月遅れの815日に行うところが多く、「おがら」と呼ばれる麻の茎や麦藁、松の割り木などを焼く迎え火・送り火の風習は、江戸時代に盛んになったと言われています。

また、盆踊りは、本来、祖先の霊を慰め送り出すためのもので、あの有名な阿波踊りも盆踊りの一つです。

正月や盆など祖先の霊は年中いく度も子孫のもとを訪れます。正月棚や盆棚(先祖棚)はその際に祖先を迎える場所で、神棚や御霊舎の原型とも考えられています。

 

 

お彼岸

「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉どおり、彼岸は季節の変わり目であると同時に、また、祖先をまつる大切な行事でもあります。

彼岸は、春分の日(321日頃)と秋分の日(923日頃)をはさんだ前後の3日間ずつ、計7日間のことで、それぞれ春彼岸、秋彼岸と言い、彼岸の最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸の明け」、春分・秋分の日を「彼岸の中日」と言います。

彼岸には、お墓参りをする習慣があり、祖先の霊を家に迎える盆とは違って、祖先に会いにゆく行事としての色彩が濃いようです。

 彼岸は、日本にしかない行事で、豊作に欠かすことのできない太陽をまつり、祖霊の加護を祈る古くからの儀礼と結びついたものと言われています。

 

 

 

3.「寺請制度」

さて、神道と仏教のお盆の行事が習合して現在のお盆の行事になっていると思われますが、習合が必要であった理由は江戸時代の寺院が担った寺請制度が関わっているようです。

以下はウィキペディアより引用しました。

寺請制度

寺請制度(てらうけせいど)は、江戸幕府が宗教統制の一環として設けた制度。寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度である。必然的に民衆は寺請をしてもらう寺院の檀家となったため、檀家制度や寺檀制度とも呼ばれるが、厳密には檀家制度と寺請制度は異なる(詳しくは檀家制度を参照)。

その目的において、邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙った制度であったが、宗門人別改帳など住民調査の一端も担った。

内容

具体的には、仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請ける制度である。寺請制度の確立によって民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となる事を義務付けられた。寺院では現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院に一定の信徒と収入を保証される形となった。

 一方、寺院の側からすれば、檀信徒に対して教導を実施する責務を負わされることとなり、仏教教団が幕府の統治体制の一翼を担うこととなった。僧侶を通じた民衆管理が法制化され、事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、また汚職の温床にもなった。この事が明治維新時の廃仏毀釈の一因となった。

 また、民衆の側からすれば、世の中が平和になって人々が自分の死後の葬儀や供養のことを考えて菩提寺を求めるようになり、その状況の中で寺請制度が受け入れられたとする見方もある。例えば、現在の静岡県小山町にあたる地域で江戸時代に存在していた32か所の寺院の由来を調べたところ、うち中世から続く寺院は1つのみで、8か所は中世の戦乱で一度は荒廃したものを他宗派の僧侶が再興したもの、他は全て慶長年間以降に創建された寺院であったとされている。また、別の研究では元禄9年(1696年)当時存在した6000か所の浄土宗寺院のうち、16世紀以降の創建が9割を占めていたとされている。こうした寺院の創建・再建には菩提寺になる寺を求める地元の人々の積極的な協力があったと推定され、寺請制度はその状況に上手く合う形で制度として社会へ定着していったとみられている。

2022年8月1日月曜日

令和4年 祇園祭 出御祭・還御祭・引継式

7月25日(月)の本祭に続き、7月30日(土)、令和4年の八雲神社祇園祭出御祭ならびに還御祭が行われました。

正午より、当番町・上横町の役員ならびに八雲神社氏子総代各位の参列のもと、御神輿に御祭神の分御霊をお遷し、お宮出しをする出御祭が行われました。








本年も、感染症対策のため、残念ながら車載による縮小日程の渡御となりましたが、拝殿から大鳥居を出るまでの参道を担ぎ手の皆さんにより御神輿を担ぎ出して頂くことができました。



御神輿はトラックにお載せして各氏子町内を回り、各町内の御小休み所では神職が祝詞をあげました。


陽が傾いてきた午後4時過ぎ、御神輿が神社に帰ってきました。
トラックから降ろされた御神輿は、境内に集まった氏子・崇敬者の皆さんに見守られながら、担ぎ手の皆さんにより大鳥居から拝殿までの参道を担いでいただきました。



当番町・上横町と、八雲神社お膝元の上の町のお囃子会の皆さんによるお囃子奉納演奏が、御神輿をお迎えしました。

拝殿前まできた御神輿は、しばしの間ではありましたが、担ぎ手の皆さんによる熱い「神輿揉み」が行われ、お宮入りはクライマックスを迎えました。


御神輿が拝殿に納められ、氏子総代会長、当番町行司長によるご挨拶と、お集まりの皆さんによる三本締めが行われました。

続いて、拝殿では、御神輿のお帰りを奉告する還御祭が行われました。


翌7月31日(日)、片付け作業の後、引継式が行われました。
氏子総代会役員立会いの下、上横町から次年度当番町・大町へ、お道具類を一つ一つ確認しながら引き継ぎが行われました。

来年こそは、従来の賑やかなお祭りができますことをお祈りして、本年の祇園祭の全ての行事が終了となりました。
皆さま大変お疲れさまでございました。